スーダン訪問記

2013.5.25

第8回 現地でのスケジュール-3

Roming(ロミン)でのミーティングを終えて、州都であるTorito(トリト)に向かいましたが、いきなり道路際に白と赤で塗られた石が点々と並んでいるのを発見しました。

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この石が”地雷原”であることのしるしです。
州都は内戦時にとても重要な地域でもあったため、北部スーダンの攻撃から守る為にも数多くの地雷を埋めたのだそうです。
中には車からほんの数メートルの所にまだ未処理の地雷が放棄されている場所があったりします。

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「トリトで簡単な昼食をとり、その日の夕食を手に入れるためにマーケットを視察することができました。
マーケットといっても基本的には露天テーブルに簡単な野菜(トマト、ホウレンソウ、玉ねぎ)、穀物(とうもろこし、米)そして肉(牛肉、羊肉)が並んでいるだけです。
当然冷蔵庫や陳列棚があるわけでもなく、ハエが飛びまわっているのが当たり前の状況です。

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トリトで夕食を仕入れてから、この日の最終目的地であるイメドゥ(Imedu)に向かいました。
実はこの区間がキャンプで最も過酷な場所でした。
窓から入ってくる風はまるでヘヤードライヤーのよう、足元に置いてあるペットボトルの水はすぐにお湯のように温まってしまいます。
でも熱風に当たり続けているので、その”お湯”を飲まないとどんどん体力が落ちていきます。結局3時間くらいの道中で2リットルのボトル2本が空になりました。

またこの区間は野生の動物にも数多く出会うことができました。
ガゼール、バブーン(ヒヒ)、その他名前のわからない大きな猿などが車の前に飛び出してきたりします。

そしてやっとの思いでイメドゥ(Imedu)に到着。
予定では3時くらいに到着するはずだったのに、ついたのは5時過ぎ。
この日はミーティングが出来ず、関係者への挨拶だけでこの日は終わりました。
そして「ここが今日の宿です」と言って紹介されたのは、”ツゥクル”という現地の小屋、土を練って作った壁にカヤの屋根という極めてシンプルなものです。
水を浴び汗でベトベトになった身体をきれいにし、夕食を食べ、スタッフの方々と語らいあとは寝るだけ、、、
ツゥクルに入って、横になったとたんサウナにでも入ったような汗が出てきて、Tシャツは5分でビッショリ濡れてしまいました。
「これは眠れないな」と思いながらも、我慢して横になったら今度は「クルクル」という鳥のような鳴き声が聞こえてきます。
鳴き声の方に懐中電灯を照らしてみるとそこには”ゲッコ”と呼ばれる大きなやもりがいて、こちらをにらんでいて目と目があってしまいました。

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ほとんど眠れない状態で朝を迎え、小屋を出てみると現地の人たちは地面にゴザのようなものを敷いて寝ていました。
さすがに現地の人も暑くて小屋の中では眠れなかったようです。

そして今回のキャンプ最終訪問地「イダレ(Idare)」に向かいました。
昨日暑さで苦しんだ道を戻っていくんですが、朝なのでまだそれほど暑くなる前にイダレに到着することができました。
ここのPHCU(簡易診療所)の隣には小さな山があります。人々は皆この山の上に住んでいます。
というより、この地域の人々は皆山の上に住んでいます。
内戦が激しい頃、夜中に突然トラックに乗った兵士が村を襲って機関銃を掃射したため、全滅になった村がいくつもあるそうです。
人々はそういった奇襲を恐れ、襲われにくく、逃げやすい山の上に移り住んだのだそうです。
内戦が終わって4年経ちますが、人々の脳裏から内戦の恐怖が消えない限り、どんなに不便でも山の上の生活を終えることはないのでしょう。

このイダレでやってはいけない失敗をやってしまいました。
遊んでいた子供たち(8人くらい)に「ピースプロジェクト」のTシャツを配ったまでは良かったんです。
真新しいTシャツに替って写真を撮って、村のボランティアの人々とミーティングをしている間にどこからともなく子供たちがわんさか集まってきました。
そうです。彼らは「Tシャツを配っているらしい」という噂を聞きつけて集まってきたんです。
でも持参した子供用のTシャツはもう1枚もありません。
結局、彼らには期待だけさせて何も出来ずにこの村を後にすることになりました。本当に申し訳ないことをしたと反省しています。

イダレでのミーティングを終えて、トリトで昼食をとりカポエタへ戻る道中とても悲しいものを見てしまいました。
20頭ほどの羊を遊牧している子供がいたんです。
最初はいつもの光景だなと思ったんですが、よく見るとその子供(10~12歳くらい)の背中にはロシア製の機関銃が黒く輝いていたんです。
聞くと、子供でも羊を盗もうとする人間には容赦なく撃つそうです。私たちの常識はここでは通用しないし、「”強く”なければ生きていけない」という当たり前が存在するだけなんです。
でも、「子供の背中に機関銃」という現実は、なまっちょろい私にはとても悲しく映りました。
《キャンプで見たもの》

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株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回に続く

2013.5.25

第7回 現地でのスケジュール-2

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カポエタに着いてまず真っ先に向かったのが「カポエタ南郡」の郡長さんへのご挨拶。続いて「国立安全警備省」の事務所、南部スーダン帰還促進事務所へのご挨拶でした。

この挨拶をしっかりとやっておかないと、「見慣れぬあいつは何者?」ということで地域での活動が何もできなくなってしまいます。

一通りご挨拶を済ませて、地域での活動がOKになります。
移動はすべて「難民を助ける会」のランドクルーザーを使います。

当然ですが公共交通手段は一切ありません。人々の移動は”歩き”です。
水を汲みに毎日2時間くらい歩くのは”日常”です。
頭の上に20キロくらいの水が入ったポリタンクを乗せて”命の水”を運んでいます。

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「ランドクルーザー」という名前、「ランド=大地」を「クルーズ=航海する」まさに道なき道を航海している感触を今回の視察で実感できました。
しかもエアコンは一切使いません。恐らく装備はしているのでしょうが、オーバーヒート等の理由で一切スイッチを入れることはありませんでした。

後述しますが、1泊のキャンプでロパ郡を訪問したとき、窓から入ってくる熱風は髪を乾かすドライヤーそのもの、体力がどんどん奪われ、常に水を補給し続けなければなりませんでした。

今回の視察スケジュール(概要)
1日日:郡長さん、国立安全警備省事務所、南部スーダン帰還促進事務所等への挨拶訪問。ブリーフィング。
2日目:全スタッフとのセッション(私たちの紹介を含めて)、井戸、給水塔見学ツアー。
3日目:カポエタのカトリック教会礼拝に参加(ここで現地のゴスペルソングを聞くことができ、感動しました)
4-5日目:ロパ郡へのキャンプ(詳細は後述)
6日目:WFP(世界食料計画)、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、WAY STATION(帰還民受け入れ施設)、MAG(地雷除去NGO)訪問
7日目:カポエタ北郡訪問。カポエタタウンの小学校訪問。
8日目:ロキチョキオ経由でナイロビへ移動。

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ロパ郡へのキャンプ視察が今回のメインイベントです。
下の地図右端のカポエタ南郡を出発し、ロミン(Roming)にある簡易診療所(PHCU)を訪問、現地のボランティアの人たちとミーティング、そしてトリト(東エクアトリア州州都)で昼食、その日のうちにイメドゥ(Imedu)まで移動(イメドゥ泊)。

翌日イメドゥのPHCUでミーティング、最後のPHCUイダレ(Idare)でのミーティングを終え、トリトに立ち寄ってカポエタに戻ってくるというスケジュールでした。

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全工程約400キロなのですが、当然道路は未舗装、幹線道路から一歩分け入ると四駆のランドクルーザーでも慎重に運転しないと進んでいけない”道なき道”の連続です。

今回は乾季でしたからそれでもまだましなそうです。
雨季になると突然川が出現して、道が消えてしまうこともしばしば、土も粘土質のため、雨が降るとぬかるんで前に進むことが出来なくなってしまいます。

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最初の訪問地であるロミン(Roming)まではタイヤのパンクがありましたが、順調に訪問することが出来ました。

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PHCU(簡易診療所)を訪問し、施設を見学し(といっても小さな施設なので数分)、ボランティアに皆さんとミーティングを行いました。

皆さんから、ここに簡易診療所を作っていただいた謝礼や、井戸が出来て、それまで水汲みに数時間かかっていたのが便利になったことのお礼の言葉がありました。

そのうえで、現地の産婆師の女性から”出産時に使うゴム製の手袋が不足している”との要望が出されました。
最後にボランティアの方々全員に日本から持っていったTシャツをプレゼントさせていただきました。

このTシャツの胸には「阪神優勝」という文字がプリントされています。

数年後に日本人がこの地を訪れることがあったら、きっと「阪神優勝」Tシャツを着ている多くの現地の人を見てびっくりするに違いありません。

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株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回に続く

2013.5.25

第6回 現地でのスケジュール-1

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AARの現地事務所のあるカポエタ(南スーダン、東エクアトリア州)はほぼ赤道の直下にあります。
当然、太陽は真東から真上に昇り、真西に沈みます。

電気、舗装されている道路、コンクリートのような近代的な建物も全くありません。
そんな中で現地の活動拠点は2007年12月に完成した「コンパウンド」と呼ばれる居住施設です。
大きく分けると仕事をこなすための事務所棟と生活するための居住棟に分かれます。
コンパウンドの広さは105×70メートル、ほぼサッカーグランドと同じ広さです。

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水は地下水を太陽電池で発生した電気でくみ上げて貯水タンクにためて給水します。
画像の給水塔には1キロリットルを貯めておくことができます。

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ソーラーパネルで発電し、給水塔のモーターをまかないます。赤道直下なのでパネルは真上を向いています。

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このパラボナアンテナでインターネットも使用可能です。昼間太陽がかげってしますと使えなくなってしまいます。

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テントで生活しました。中にはベッド、テーブル、トイレ、シャワーが完備していましたがシャワーは当然水だけ、夕方水圧が低くなると出なくなります。
夜にはゲッコ(やもり)が来訪し、鳥のような声で鳴いて目を覚ましてくれたりします。

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現地の事務所には3台のランドクルーザーが用意されています。そのうちの1台はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から提供されています。
当然、ガソリンスタンドはないので、ケニアに行った際に買いだめし給油します。

とまあ、何をするにも現地では何も調達できません。

後日談ですが、雨季に入ったコンパウンドに3メートルもある毒蛇”ブラックマンバ”が出現し、スタッフの一人が毒液を目に吐きかけられ、危うく失明するところだったそうです。私は見ていませんがサソリもいるらしいです。
株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回に続く

2013.5.25

第5回 「難民を助ける会」との出会い

正式名称は、特定非営利法人「難民を助ける会」(通称AAR)といいます。

1979年に相馬雪香さん(尾崎行雄(咢堂)の三女)が当時69歳にして設立した100%民間の手によるNGO(非政府組織)です。国連にも認定・登録されたNGOで、国税庁にも18番目の認定NPO法人として登録されています。

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私たちが「難民を助ける会」と出会ったのは2001年のことです。

9月11日、それまで想像もしたことがない大惨事が発生しました。

「同時多発テロ」です。

アメリカはこれを機会にアフガニスタンに侵攻しました。それまでアフガニスタンという国のこともよく知らなかった私たちでしたが、テレビに映し出される状況をみてとてもショックを受けました。
この国には今でも何百万という地雷が埋められていて、その地雷によって毎年何百人、何千人の人々が被害にあっていること、特に何の罪もない子どもたちが傷ついている姿が痛々しく感じました。

このアフガニスタンという国には今でも何百万という地雷が埋められていて、その地雷によって毎年何百人、何千人の人々が被害にあっていること、特に何の罪もない子どもたちが傷ついている姿が痛々しく感じました。

この時、同時に地雷を除去する活動を展開するNGOの姿も映し出されており、”私たちにも出来ることは何かないか?”と思い立ったのが「ピースプロジェクト」のきっかけです。

色々と模索してみましたが、”これ”という案が出てきません。

そんな時、とある友人から「イングラムにはピースマークがあるんだから、あれを有効に使わないともったいないよ」というアドバイスをいただきました。ちょうど199X年にとあることがきっかけで、ピースマークの商標を取得していましたが、実際には何に使うこともありませんでした。それは私たちの苦い経験に基づく結果です。

私たちイングラムのビジネスは「ライセンスビジネス」です。

ブランドやキャラクターといった無体財産をメーカーや企業に使ってもらうのが仕事です。「それならば、このピースマークを同じように使ってもらって、そのロイヤリティをどこか正しい活動をしているNGOに使ってもらおう」という話しになりました。

そして色々なNGOの研究が始まったのですが、私たちの希望としては、

1. 日本のNGOであること

2. 政治、宗教、その他のイデオロギーに偏らないこと

3. 永く継続活動を続けていること

に重点を置いて探しました。

なかなか思うようなNGOを探すことが出来ませんでしたが、最終的に「難民を助ける会」を知ることができました。すぐに連絡を取り活動の主旨を電話で話しましたがその結果は「難民を助ける会の名前をビジネスに、利用されることへの懸念がある」ということでNGでした。

確かに訳の分からない中小企業が突然「寄付したい」と言っても何から企みを疑うのは仕方ないことです。何度かの話し合いで、「難民を助ける会」の理念や活動方針を信じるようになり”一緒に活動していくのはこの「難民を助ける会」しかない”と思いを強くしました。

最後は強引に直接理事長に会わせていただくようにお願いをして、私たちの想いを伝えたところ、当時の柳瀬理事長から「いいじゃない、やってみましょうよ!」とお言葉をいただきました。

正式に契約に至ったのは2004年4月のことです。

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「難民を助ける会」は現在、カンボジア、ミャンマー、アフガニスタン、スーダン、アンゴラ、ザンビアなどこれまでに世界50カ国以上で支援活動を展開しています。

また、世界各国からの難民を日本に受け入れる活動にも力を入れておられます。
同じ日本人として、こういう活動を長期にわたって継続されていることに心から敬服いたします
カポエタでの「難民を助ける会」の活動

カポエタ(南スーダン、東エクアトリア州)にある「難民を助ける会」(AAR)の施設には3人の日本人と21人の現地スタッフが駐在しています(訪問当時)。ここでの活動の主たる目的は、生活インフラの支援にあります。

前述していますようにこの地域の最優先事項は人々の生活よりも、セキュリティにあります。

例え、医者が160万人に対して14名しかいなくても、井戸水のような清潔な水を使えるのが3分の1に満たなくても、優先するのは軍事なのです。

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AARの活動の中身は、

1. 井戸や給水タワーの提供(2008年末までに50基の井戸設置)

2.地雷回避教育の援助

3.初期医療システムの提供(これまでに簡易医療施設を3棟設置)

4. 現地での医療サポートシステムの構築

5.帰還難民受け入れのためのサポート

などがあげられます。

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井戸1つ掘るにも現地の郡長の許可が必要になります。

現地のスタッフは毎日あちらこちらの役人と打ち合わせを行ったり、時には何日もかけて南スーダンの僻地まで視察に行ったりしています。

「PHCU」と呼ばれる簡易診療所を東エクアトリア州に3ヶ所設置(09年3月時点)していますが、年に数回はこういう施設を訪問して活動状況を確認、コミュニケーションをはかっています。訪問すると言っても、東エクアトリア州は東京都の約40倍、更に舗装道路はどこにもなく、雨季になると道路が簡単に”川の底”という状態ではすんなりと活動できない状況です。

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更に現地ではマラリア、黄熱病、髄膜炎、狂犬病といった私たちには無縁の病気が今でも存在しています。また帰還難民によるHIV(エイズ)拡大の恐怖も深刻な問題です。現地のAARスタッフはこれらの問題解決にむけて、蚊帳の配布を行ったり、トイレの設置を促したり、地道な努力をそれこそ一進一退しながら続けています。
しかし、なかなかすんなりと受け入れてもらうことが出来ない現実もあります。
HIV対策でコンドームを配ろうとしても「そんな5年先に発病する病気のことを心配するよりも、明日の生活を心配することで精一杯」という理由で受け取ってもらうことが出来ないそうです。

現地の名取駐在代表に一番重要な点をお聞きしたところ、「何もかも私たちの常識とは違う世界で、活動していくために必要なことは、現地の目線に立って”何が必要なのか”を知ることです」とおっしゃっていました。

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2013.5.25

第4回 アフリカ大陸 スーダン 南スーダン カポエタについて

アフリカ大陸には53カ国が存在します(2009年3月時点)。
総面積は3030万平方キロ(世界の22.3%)。
人口は8億5千万人(世界の13.7%)。
つまり世界の2割強の面積に世界の14%弱の人間が住んでいることになります。 ナイロビやケープタウンのような都市も存在しますが、その多くは原野であり、多くの国々が貧困にあえいでいるのが実情です。

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そのアフリカの東部に今回訪問したスーダンは、ほぼ赤道の真下に位置します。

スーダンの面積はアフリカ最大250万平方キロ(日本の7倍)あります。
人口は3856万人。
首都はハルツーム(人口約452万人)。
スーダンには2005年まで内戦がありました。
アラブ系の北スーダンと黒人系の南スーダンが政権を争い約190万人が死亡、400万人以上が家を追われています。

“ダルフールの悲劇”と呼ばれる虐殺もこの過程で起きています。

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【東エクアトリア州】
今回訪問したカポエタ・タウンは南スーダンの東エクアトリア州に含まれます。

人口は161万人。
8つの郡、241のBoma(集落の単位:200~1200人)。
色々な部族が混在し、言葉も文化も異なります。

この南スーダンの政府が優先する事項は次のようになります。

1.治安維持、防衛

2.道路インフラ

3.プライマリ・ヘルス・ケア(初等医療)

4.初等教育

5.水

6.ライブリフッズ(Livelihoods:家畜、生活、生計等)

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つまり、人々の生活よりも治安を維持すること、北スーダンからの侵略に備えることが優先されるのです。 これは内戦を経験してきた国だからこその選択であるとも言えますが、そのぶん人々の生活にしわ寄せが来るのは避けられない事実です。
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その結果、

1.東エクアトリア州(人口161万人)における免許を持った医師の数はたった14名。

2.地域の平均寿命は平均寿命は42歳。

3.新生児の死亡率は10.2%(日本は0.5%)

4.5歳未満児の死亡率は11.7%(日本は0.4%)

5. 井戸のように浄化された水を使用することができるのはたった36.7% 3分の2の人間は川や水溜りの水を利用するしかありません。しかし、それらの水には病原菌や病気を媒介する微生物が沢山存在します。

6. 1人あたりの1日の水使用量平均値は2.5ℓ。日本人は307ℓ使っています、トイレ1回に使用する量は13~15ℓです。
電気もない、水もない、食べるもの、着るもの、学校も病院もここにはありません。でも人々は力強く生きています。何もないのが当たり前のように・・・

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【カポエタタウン】
「難民を助ける会」(AAR)の事務所があるカポエタタウンの人口は1万7千人。
SPLA(スーダン開放戦線)やその支持母体のディンカ族とハルツーム政府(北スーダン)の戦闘の前線となった町ゆえ、被害が最も大きい町の一つです。
街の中央には放置された装甲車が雨ざらしになっています。
5分も車を走らせると赤と白で塗り分けられた石が並んでいます。この石より奥は”地雷原”であるという印です。
そうです、ここは間違いなく”戦場”だったのです。
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代表取締役 加藤勉
*次回に続く