スーダン訪問記

2013.5.25

第3回 スーダンまでの道のり-2

ケニア国境。ここから撮影禁止。ここで武装警官の護送が必要です。
6人乗りの中型トラック、後ろの窓からは機関銃が何本ものぞいています。荷台にも武装警官がいるかのようにシートがかけられています。

舗装も無いでこぼこの山道をもの凄いスピードで駆け上っていく武装警官と我々。でもこうしないと山岳地帯で見張っている山賊に襲われてしまうそうです。しかも道の真ん中に水が流れるときに出来る深くて大きい溝があちらこちらにあって、運転するにも気が抜けない状態が続きます。
こんな状態が90分続いてようやくスーダン国境に到着。

まだまだ安心できません。ここで通用するのはパスポートではありません。南スーダン政府(GOSS)が発行する旅行許可証だけです。国境事務所に入って、その旅行許可証を見せて「OK」をもらうまでは良かったのですが、車に戻ると酔っ払った兵士が車を囲んで何か言っています。

聞くと「これはお前らの荷物か?1個に付き40ポンドを支払え!」という意味不明の要求を突きつけてきます。「払う根拠がない」といっても、「払わないとここを通さない」の一点張り。10分以上の押し問答の末に大西さんのアイデアで「加藤さんは日本からやってきたVIPで、ここで問題起こすとあなたは大変なことになる」と伝えたとたん”バタン”とドアを閉めてどこかへ行ってしまいました。

やっとの思いで国境を通過、ここから再び撮影開始。
すぐに見えてきたのはヤギや羊を遊牧する部族の姿。遊牧する家畜は羊、ヤギに限らない、牛はもちろん、ラクダやロバなど多岐にわたります。

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現地の家はというと、泥を練って作った”土小屋”、屋根には萱のようなものが敷き詰められています。 舗装されていない粘土質の道を時速80キロ以上で突っ走るランドクルーザー。この時はじめて、「ランドクルーザー」という名前の意味を知った様な気がします。本当に荒れた道をクルーズしている感覚です。

そんなクルージングを”楽しんで2時間近くが過ぎ、成田空港を飛び立って58時間になろうという時、目的地である”カポエタ・タウン”が見えてきました。 見えてきたと言っても、少し人影が多くなった程度、道路の脇に「WFP(世界食料計画)」の建物や倉庫、「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)」の建物が見える程度です。

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「ここが本当に町なのか?」
「こんなところに人が住んでいるの?」現実味がありません。
「もうすぐコンパウンド(住居施設)に到着します」と言われても
「えっ!こんな所で働いている日本人が本当にいるの!!」という夢のような感覚です。

身体は冷房のない車での長時間の移動で、頭は緊張感、不安でいっぱいいっぱいになっていたのですが、名取さんという現地駐在代表からの「遠いところをようこそいらっしゃいました」という一言で一気に力が抜けてしまいました。
株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回「アフリカ、スーダン、南スーダン、カポエタについて」に続く

2013.5.25

第2回 スーダンまでの道のり-1

今回のスーダン訪問に際して取引先からTシャツ300枚をご協賛いただきました。
段ボール箱にして3箱。重さにして約90キロになります。

スーダンまでの旅程は、成田からバンコク、バンコクでケニア航空に乗り換えてナイロビへ、ナイロビでスーダンの入国手続きを行い、翌日ナイロビからケニア北部のロキチョキオは空路移動、そして最後はカポエタから迎えに来てくれたランドクルーザーに乗って陸路でスーダン国境を超えていきます。
時間にしてトータル58時間の旅です。

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しかも、段ボール3箱を抱えての移動は決して容易ではありませんでした。
まず、成田空港のカウンターで「荷物の超過料金が9万円になります」と言われてしまいました。いつも使っているJAL(成田-バンコク)は事前に支援物資ということで超過分は無償にしていただいていました。問題はバンコクからナイロビまでのケニア航空の分です。9万円あったら現地でTシャツ200枚程度は購入できます。
ここは同行していただいた大西さん(『難民を助ける会』)のアドバイスもあり、バンコクで荷物を降ろして、バンコクのケニア航空と交渉することにしました。

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果たして、バンコクの空港に到着したものの、乗り換え便の出発まで9時間もあるため、ケニア航空の担当者は不在、ここで6時間近くの時間をつぶし、カウンターが開くのを待って交渉開始、粘り強い交渉の結果、9万円と言われた超過料が1万円にまで下がりました。これで一安心です。
バンコクでナイロビ行きのケニア航空に乗り換え、夜中12時40分出発、9時間のフライトでナイロビ到着、時差もあって朝5時30分です。

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ナイロビの空港まで『難民を助ける会』のカポエタ現地スタッフ石橋さんが迎えに来てくれていました。一旦ナイロビの事務所に足を運んで、スーダン入国書類の受け取りや支援物資の荷造りしなおし等を行って、翌日のスーダン入国に備えました。
そして翌日の朝一番でナイロビのウイルソン空港に行き、ケニア北部のロキチョキオ行きの飛行機に乗り込みます。この飛行機がプロペラ機、しかも当初予定されていたものは18人乗りで「何があってもおかしくない」感じ、ただし実際には乗客が増えて40人乗りの大型機に変更されていました。このプロペラ機から眺めるケニアはどこまでも続く広いサバンナ、そして砂漠、枯れた川、徐々に景色が文明から離れていきます。
約1時間のフライトで到着した”ロキチョキオ空港”、まるで神津島の空港、いやそれ以上に何もない空港です。

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このロキチョキオにカポエタの事務所からランドクルーザーで出迎えがありました。10人くらい乗ることが出来る大型ジープです。既に市内で買い込んだ日用品等をぎっしりと積み込んであります。

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今回の旅、ここからが最も危険な地域に入ります。
すなわちケニア国境からスーダン国境までの90分が俗にいう”無法地帯”、武器を携えた山賊がいまだに占拠している地域です。

ロキチョキオ空港を出てから5分もすると舗装道路がなくなります。ケニア国境近くでは物資輸送トラックが横転して川に落ちています。落ちたばかりなのか、周りを大勢の野次馬が囲んでいます。
運転手たちはひっくり返ったトラックの上で呆然とするばかりでした。
株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回「スーダンまでの道のり-2」に続く

2013.5.25

第1回 スーダンを訪問した理由

これから数回にわけて2009年3月4~17日にスーダン(南スーダン)を訪問してきた報告を行います。
まず今回は、「スーダンを訪問することになった理由」をご説明します。

私たちの会社イングラムは、2002年4月に『難民を助ける会』と共同で『ピースプロジェクト』を立ち上げる契約を交わしました。
きっかけは、2001年の同時多発テロ後のアメリカによるアフガン侵攻、そして報道でクローズアップされた現地で地雷によって苦しめられている子どもたちの映像です。
「私たちに何か出来ることはないか」
と考えた結果、「ライセンス会社であるイングラムが所有しているピースマークをライセンス供与してそのロイヤリティを”正しい活動を展開しているNGO”に寄付しよう」というものでした。

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さまざまな経緯を経て『難民を助ける会』にたどり着き、数回のアプローチで承認を得て契約させていただくことができました。

その後、わずかではありますが毎年ロイヤリティを寄付し続けてきました。私たちも活動にそれなりの誇りを持っていたつもりでした。

2007年4月、カンボジアを訪問する機会を得て、『難民を助ける会』の現地施設にも訪問することにしました。
その際、段ボール8箱に及ぶTシャツ、文房具、お菓子などを携えて「きっと喜んでくれるに違いない」と期待一杯で訪問しました。

でも、そこのソチェトさんという女性の所長から聞かされた言葉でちっぽけな親切の押し売りは木っ端微塵にくだかれました。

「私たちに必要なのは魚ではなく”魚を獲る方法”なんです」
最初は言っている意味がわかりませんでした。
よく聞くと、「魚は食べてしまえばそれで終わり、でも魚を獲る方法を知っていれば、明日からも勇気を持って生きていくことが出来ます」
「カンボジアという国も今は日本をはじめとする先進国からの援助で成り立っています。でもこれらの援助がなくなってしまえばこの国はどうなってしまうんでしょう」

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「この施設では両親を失ってしまった子ども、地雷等で手足を失ってしまった子ども、いわば生きていく希望をなくした子どもを自立させるために活動しています。ここでは、ただ単に生活の場を与えるだけでなく、ある程度の学問を身につけたうえで、縫製技術、テレビ、ラジオ等の電気製品の修理技術、自転車等の修理技術、車椅子の製造技術等々を身につけさせ、自活できるように指導育成しています。ここで学んだ子どもたちは明日の魚を自分で獲る方法を身につけて巣立っていくのです」

この言葉を聞き、何にも知らない自分が恥ずかしくなり、同時にもっと現実を知ることの大切さ、そしてそれを伝えていくことの必要性を感じました。

“与える人間が持つおごり”、まさに気づかないで上からの目線でものを見ていました。
この経験で『支援活動とは何か、本当に現地で支援活動をされている人々から学び、それを自分たちで伝えていこう』と決意しました。

2008年に「アフガニスタンを視察したい」と要望しましたが、日本人ボランティアの拉致、殺害事件が起きてしまい、かないませんでした。
「じゃあ、最も悲惨な現場を見せてください」とお願いしたら「それでは南スーダンに行きましょう」ということになったわけです。

今は帰国して、原稿を書いていますが、1月にスーダン行きが決まった後は、「自分の身に起こることは仕方ないけれど、お世話になる皆さんに迷惑をかけられないな!」というプレッシャーと”万が一のときの覚悟”を決めるのに必死でした。
株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回「スーダンまでの道のり-1」に続く