活動レポート

2013.5.25

第5回 「難民を助ける会」との出会い

正式名称は、特定非営利法人「難民を助ける会」(通称AAR)といいます。

1979年に相馬雪香さん(尾崎行雄(咢堂)の三女)が当時69歳にして設立した100%民間の手によるNGO(非政府組織)です。国連にも認定・登録されたNGOで、国税庁にも18番目の認定NPO法人として登録されています。

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私たちが「難民を助ける会」と出会ったのは2001年のことです。

9月11日、それまで想像もしたことがない大惨事が発生しました。

「同時多発テロ」です。

アメリカはこれを機会にアフガニスタンに侵攻しました。それまでアフガニスタンという国のこともよく知らなかった私たちでしたが、テレビに映し出される状況をみてとてもショックを受けました。
この国には今でも何百万という地雷が埋められていて、その地雷によって毎年何百人、何千人の人々が被害にあっていること、特に何の罪もない子どもたちが傷ついている姿が痛々しく感じました。

このアフガニスタンという国には今でも何百万という地雷が埋められていて、その地雷によって毎年何百人、何千人の人々が被害にあっていること、特に何の罪もない子どもたちが傷ついている姿が痛々しく感じました。

この時、同時に地雷を除去する活動を展開するNGOの姿も映し出されており、”私たちにも出来ることは何かないか?”と思い立ったのが「ピースプロジェクト」のきっかけです。

色々と模索してみましたが、”これ”という案が出てきません。

そんな時、とある友人から「イングラムにはピースマークがあるんだから、あれを有効に使わないともったいないよ」というアドバイスをいただきました。ちょうど199X年にとあることがきっかけで、ピースマークの商標を取得していましたが、実際には何に使うこともありませんでした。それは私たちの苦い経験に基づく結果です。

私たちイングラムのビジネスは「ライセンスビジネス」です。

ブランドやキャラクターといった無体財産をメーカーや企業に使ってもらうのが仕事です。「それならば、このピースマークを同じように使ってもらって、そのロイヤリティをどこか正しい活動をしているNGOに使ってもらおう」という話しになりました。

そして色々なNGOの研究が始まったのですが、私たちの希望としては、

1. 日本のNGOであること

2. 政治、宗教、その他のイデオロギーに偏らないこと

3. 永く継続活動を続けていること

に重点を置いて探しました。

なかなか思うようなNGOを探すことが出来ませんでしたが、最終的に「難民を助ける会」を知ることができました。すぐに連絡を取り活動の主旨を電話で話しましたがその結果は「難民を助ける会の名前をビジネスに、利用されることへの懸念がある」ということでNGでした。

確かに訳の分からない中小企業が突然「寄付したい」と言っても何から企みを疑うのは仕方ないことです。何度かの話し合いで、「難民を助ける会」の理念や活動方針を信じるようになり”一緒に活動していくのはこの「難民を助ける会」しかない”と思いを強くしました。

最後は強引に直接理事長に会わせていただくようにお願いをして、私たちの想いを伝えたところ、当時の柳瀬理事長から「いいじゃない、やってみましょうよ!」とお言葉をいただきました。

正式に契約に至ったのは2004年4月のことです。

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「難民を助ける会」は現在、カンボジア、ミャンマー、アフガニスタン、スーダン、アンゴラ、ザンビアなどこれまでに世界50カ国以上で支援活動を展開しています。

また、世界各国からの難民を日本に受け入れる活動にも力を入れておられます。
同じ日本人として、こういう活動を長期にわたって継続されていることに心から敬服いたします
カポエタでの「難民を助ける会」の活動

カポエタ(南スーダン、東エクアトリア州)にある「難民を助ける会」(AAR)の施設には3人の日本人と21人の現地スタッフが駐在しています(訪問当時)。ここでの活動の主たる目的は、生活インフラの支援にあります。

前述していますようにこの地域の最優先事項は人々の生活よりも、セキュリティにあります。

例え、医者が160万人に対して14名しかいなくても、井戸水のような清潔な水を使えるのが3分の1に満たなくても、優先するのは軍事なのです。

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AARの活動の中身は、

1. 井戸や給水タワーの提供(2008年末までに50基の井戸設置)

2.地雷回避教育の援助

3.初期医療システムの提供(これまでに簡易医療施設を3棟設置)

4. 現地での医療サポートシステムの構築

5.帰還難民受け入れのためのサポート

などがあげられます。

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井戸1つ掘るにも現地の郡長の許可が必要になります。

現地のスタッフは毎日あちらこちらの役人と打ち合わせを行ったり、時には何日もかけて南スーダンの僻地まで視察に行ったりしています。

「PHCU」と呼ばれる簡易診療所を東エクアトリア州に3ヶ所設置(09年3月時点)していますが、年に数回はこういう施設を訪問して活動状況を確認、コミュニケーションをはかっています。訪問すると言っても、東エクアトリア州は東京都の約40倍、更に舗装道路はどこにもなく、雨季になると道路が簡単に”川の底”という状態ではすんなりと活動できない状況です。

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更に現地ではマラリア、黄熱病、髄膜炎、狂犬病といった私たちには無縁の病気が今でも存在しています。また帰還難民によるHIV(エイズ)拡大の恐怖も深刻な問題です。現地のAARスタッフはこれらの問題解決にむけて、蚊帳の配布を行ったり、トイレの設置を促したり、地道な努力をそれこそ一進一退しながら続けています。
しかし、なかなかすんなりと受け入れてもらうことが出来ない現実もあります。
HIV対策でコンドームを配ろうとしても「そんな5年先に発病する病気のことを心配するよりも、明日の生活を心配することで精一杯」という理由で受け取ってもらうことが出来ないそうです。

現地の名取駐在代表に一番重要な点をお聞きしたところ、「何もかも私たちの常識とは違う世界で、活動していくために必要なことは、現地の目線に立って”何が必要なのか”を知ることです」とおっしゃっていました。

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株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回に続く

2013.5.25

第4回 アフリカ大陸 スーダン 南スーダン カポエタについて

アフリカ大陸には53カ国が存在します(2009年3月時点)。
総面積は3030万平方キロ(世界の22.3%)。
人口は8億5千万人(世界の13.7%)。
つまり世界の2割強の面積に世界の14%弱の人間が住んでいることになります。 ナイロビやケープタウンのような都市も存在しますが、その多くは原野であり、多くの国々が貧困にあえいでいるのが実情です。

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そのアフリカの東部に今回訪問したスーダンは、ほぼ赤道の真下に位置します。

スーダンの面積はアフリカ最大250万平方キロ(日本の7倍)あります。
人口は3856万人。
首都はハルツーム(人口約452万人)。
スーダンには2005年まで内戦がありました。
アラブ系の北スーダンと黒人系の南スーダンが政権を争い約190万人が死亡、400万人以上が家を追われています。

“ダルフールの悲劇”と呼ばれる虐殺もこの過程で起きています。

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【東エクアトリア州】
今回訪問したカポエタ・タウンは南スーダンの東エクアトリア州に含まれます。

人口は161万人。
8つの郡、241のBoma(集落の単位:200~1200人)。
色々な部族が混在し、言葉も文化も異なります。

この南スーダンの政府が優先する事項は次のようになります。

1.治安維持、防衛

2.道路インフラ

3.プライマリ・ヘルス・ケア(初等医療)

4.初等教育

5.水

6.ライブリフッズ(Livelihoods:家畜、生活、生計等)

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つまり、人々の生活よりも治安を維持すること、北スーダンからの侵略に備えることが優先されるのです。 これは内戦を経験してきた国だからこその選択であるとも言えますが、そのぶん人々の生活にしわ寄せが来るのは避けられない事実です。
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その結果、

1.東エクアトリア州(人口161万人)における免許を持った医師の数はたった14名。

2.地域の平均寿命は平均寿命は42歳。

3.新生児の死亡率は10.2%(日本は0.5%)

4.5歳未満児の死亡率は11.7%(日本は0.4%)

5. 井戸のように浄化された水を使用することができるのはたった36.7% 3分の2の人間は川や水溜りの水を利用するしかありません。しかし、それらの水には病原菌や病気を媒介する微生物が沢山存在します。

6. 1人あたりの1日の水使用量平均値は2.5ℓ。日本人は307ℓ使っています、トイレ1回に使用する量は13~15ℓです。
電気もない、水もない、食べるもの、着るもの、学校も病院もここにはありません。でも人々は力強く生きています。何もないのが当たり前のように・・・

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【カポエタタウン】
「難民を助ける会」(AAR)の事務所があるカポエタタウンの人口は1万7千人。
SPLA(スーダン開放戦線)やその支持母体のディンカ族とハルツーム政府(北スーダン)の戦闘の前線となった町ゆえ、被害が最も大きい町の一つです。
街の中央には放置された装甲車が雨ざらしになっています。
5分も車を走らせると赤と白で塗り分けられた石が並んでいます。この石より奥は”地雷原”であるという印です。
そうです、ここは間違いなく”戦場”だったのです。
株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回に続く

2013.5.25

第3回 スーダンまでの道のり-2

ケニア国境。ここから撮影禁止。ここで武装警官の護送が必要です。
6人乗りの中型トラック、後ろの窓からは機関銃が何本ものぞいています。荷台にも武装警官がいるかのようにシートがかけられています。

舗装も無いでこぼこの山道をもの凄いスピードで駆け上っていく武装警官と我々。でもこうしないと山岳地帯で見張っている山賊に襲われてしまうそうです。しかも道の真ん中に水が流れるときに出来る深くて大きい溝があちらこちらにあって、運転するにも気が抜けない状態が続きます。
こんな状態が90分続いてようやくスーダン国境に到着。

まだまだ安心できません。ここで通用するのはパスポートではありません。南スーダン政府(GOSS)が発行する旅行許可証だけです。国境事務所に入って、その旅行許可証を見せて「OK」をもらうまでは良かったのですが、車に戻ると酔っ払った兵士が車を囲んで何か言っています。

聞くと「これはお前らの荷物か?1個に付き40ポンドを支払え!」という意味不明の要求を突きつけてきます。「払う根拠がない」といっても、「払わないとここを通さない」の一点張り。10分以上の押し問答の末に大西さんのアイデアで「加藤さんは日本からやってきたVIPで、ここで問題起こすとあなたは大変なことになる」と伝えたとたん”バタン”とドアを閉めてどこかへ行ってしまいました。

やっとの思いで国境を通過、ここから再び撮影開始。
すぐに見えてきたのはヤギや羊を遊牧する部族の姿。遊牧する家畜は羊、ヤギに限らない、牛はもちろん、ラクダやロバなど多岐にわたります。

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現地の家はというと、泥を練って作った”土小屋”、屋根には萱のようなものが敷き詰められています。 舗装されていない粘土質の道を時速80キロ以上で突っ走るランドクルーザー。この時はじめて、「ランドクルーザー」という名前の意味を知った様な気がします。本当に荒れた道をクルーズしている感覚です。

そんなクルージングを”楽しんで2時間近くが過ぎ、成田空港を飛び立って58時間になろうという時、目的地である”カポエタ・タウン”が見えてきました。 見えてきたと言っても、少し人影が多くなった程度、道路の脇に「WFP(世界食料計画)」の建物や倉庫、「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)」の建物が見える程度です。

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「ここが本当に町なのか?」
「こんなところに人が住んでいるの?」現実味がありません。
「もうすぐコンパウンド(住居施設)に到着します」と言われても
「えっ!こんな所で働いている日本人が本当にいるの!!」という夢のような感覚です。

身体は冷房のない車での長時間の移動で、頭は緊張感、不安でいっぱいいっぱいになっていたのですが、名取さんという現地駐在代表からの「遠いところをようこそいらっしゃいました」という一言で一気に力が抜けてしまいました。
株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回「アフリカ、スーダン、南スーダン、カポエタについて」に続く

2013.5.25

第2回 スーダンまでの道のり-1

今回のスーダン訪問に際して取引先からTシャツ300枚をご協賛いただきました。
段ボール箱にして3箱。重さにして約90キロになります。

スーダンまでの旅程は、成田からバンコク、バンコクでケニア航空に乗り換えてナイロビへ、ナイロビでスーダンの入国手続きを行い、翌日ナイロビからケニア北部のロキチョキオは空路移動、そして最後はカポエタから迎えに来てくれたランドクルーザーに乗って陸路でスーダン国境を超えていきます。
時間にしてトータル58時間の旅です。

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しかも、段ボール3箱を抱えての移動は決して容易ではありませんでした。
まず、成田空港のカウンターで「荷物の超過料金が9万円になります」と言われてしまいました。いつも使っているJAL(成田-バンコク)は事前に支援物資ということで超過分は無償にしていただいていました。問題はバンコクからナイロビまでのケニア航空の分です。9万円あったら現地でTシャツ200枚程度は購入できます。
ここは同行していただいた大西さん(『難民を助ける会』)のアドバイスもあり、バンコクで荷物を降ろして、バンコクのケニア航空と交渉することにしました。

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果たして、バンコクの空港に到着したものの、乗り換え便の出発まで9時間もあるため、ケニア航空の担当者は不在、ここで6時間近くの時間をつぶし、カウンターが開くのを待って交渉開始、粘り強い交渉の結果、9万円と言われた超過料が1万円にまで下がりました。これで一安心です。
バンコクでナイロビ行きのケニア航空に乗り換え、夜中12時40分出発、9時間のフライトでナイロビ到着、時差もあって朝5時30分です。

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ナイロビの空港まで『難民を助ける会』のカポエタ現地スタッフ石橋さんが迎えに来てくれていました。一旦ナイロビの事務所に足を運んで、スーダン入国書類の受け取りや支援物資の荷造りしなおし等を行って、翌日のスーダン入国に備えました。
そして翌日の朝一番でナイロビのウイルソン空港に行き、ケニア北部のロキチョキオ行きの飛行機に乗り込みます。この飛行機がプロペラ機、しかも当初予定されていたものは18人乗りで「何があってもおかしくない」感じ、ただし実際には乗客が増えて40人乗りの大型機に変更されていました。このプロペラ機から眺めるケニアはどこまでも続く広いサバンナ、そして砂漠、枯れた川、徐々に景色が文明から離れていきます。
約1時間のフライトで到着した”ロキチョキオ空港”、まるで神津島の空港、いやそれ以上に何もない空港です。

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このロキチョキオにカポエタの事務所からランドクルーザーで出迎えがありました。10人くらい乗ることが出来る大型ジープです。既に市内で買い込んだ日用品等をぎっしりと積み込んであります。

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今回の旅、ここからが最も危険な地域に入ります。
すなわちケニア国境からスーダン国境までの90分が俗にいう”無法地帯”、武器を携えた山賊がいまだに占拠している地域です。

ロキチョキオ空港を出てから5分もすると舗装道路がなくなります。ケニア国境近くでは物資輸送トラックが横転して川に落ちています。落ちたばかりなのか、周りを大勢の野次馬が囲んでいます。
運転手たちはひっくり返ったトラックの上で呆然とするばかりでした。
株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回「スーダンまでの道のり-2」に続く

2013.5.25

第1回 スーダンを訪問した理由

これから数回にわけて2009年3月4~17日にスーダン(南スーダン)を訪問してきた報告を行います。
まず今回は、「スーダンを訪問することになった理由」をご説明します。

私たちの会社イングラムは、2002年4月に『難民を助ける会』と共同で『ピースプロジェクト』を立ち上げる契約を交わしました。
きっかけは、2001年の同時多発テロ後のアメリカによるアフガン侵攻、そして報道でクローズアップされた現地で地雷によって苦しめられている子どもたちの映像です。
「私たちに何か出来ることはないか」
と考えた結果、「ライセンス会社であるイングラムが所有しているピースマークをライセンス供与してそのロイヤリティを”正しい活動を展開しているNGO”に寄付しよう」というものでした。

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さまざまな経緯を経て『難民を助ける会』にたどり着き、数回のアプローチで承認を得て契約させていただくことができました。

その後、わずかではありますが毎年ロイヤリティを寄付し続けてきました。私たちも活動にそれなりの誇りを持っていたつもりでした。

2007年4月、カンボジアを訪問する機会を得て、『難民を助ける会』の現地施設にも訪問することにしました。
その際、段ボール8箱に及ぶTシャツ、文房具、お菓子などを携えて「きっと喜んでくれるに違いない」と期待一杯で訪問しました。

でも、そこのソチェトさんという女性の所長から聞かされた言葉でちっぽけな親切の押し売りは木っ端微塵にくだかれました。

「私たちに必要なのは魚ではなく”魚を獲る方法”なんです」
最初は言っている意味がわかりませんでした。
よく聞くと、「魚は食べてしまえばそれで終わり、でも魚を獲る方法を知っていれば、明日からも勇気を持って生きていくことが出来ます」
「カンボジアという国も今は日本をはじめとする先進国からの援助で成り立っています。でもこれらの援助がなくなってしまえばこの国はどうなってしまうんでしょう」

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「この施設では両親を失ってしまった子ども、地雷等で手足を失ってしまった子ども、いわば生きていく希望をなくした子どもを自立させるために活動しています。ここでは、ただ単に生活の場を与えるだけでなく、ある程度の学問を身につけたうえで、縫製技術、テレビ、ラジオ等の電気製品の修理技術、自転車等の修理技術、車椅子の製造技術等々を身につけさせ、自活できるように指導育成しています。ここで学んだ子どもたちは明日の魚を自分で獲る方法を身につけて巣立っていくのです」

この言葉を聞き、何にも知らない自分が恥ずかしくなり、同時にもっと現実を知ることの大切さ、そしてそれを伝えていくことの必要性を感じました。

“与える人間が持つおごり”、まさに気づかないで上からの目線でものを見ていました。
この経験で『支援活動とは何か、本当に現地で支援活動をされている人々から学び、それを自分たちで伝えていこう』と決意しました。

2008年に「アフガニスタンを視察したい」と要望しましたが、日本人ボランティアの拉致、殺害事件が起きてしまい、かないませんでした。
「じゃあ、最も悲惨な現場を見せてください」とお願いしたら「それでは南スーダンに行きましょう」ということになったわけです。

今は帰国して、原稿を書いていますが、1月にスーダン行きが決まった後は、「自分の身に起こることは仕方ないけれど、お世話になる皆さんに迷惑をかけられないな!」というプレッシャーと”万が一のときの覚悟”を決めるのに必死でした。
株式会社イングラム
代表取締役 加藤勉
*次回「スーダンまでの道のり-1」に続く